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8月, 2021の投稿を表示しています

マキシィⅠ―Pia, 1990, Vasoldsberg

マ キシィ Maxi はマキシミリアンの愛称で、雄猫の定番の名前なんです。特に凝った名前をつけたわけではないんですよ。マキシィは、灰色のヨーロピアン・ショートヘアでした。要は雑種ですね。マキシィはいつも外をほっつき歩いていました。家の隣のトウモロコシ畑やカボチャ畑で遊んだり、近くを歩き回ったり。よく動物を捕まえて、家に持って帰ってきました。ネズミとか、鳥とか。捕るだけじゃなくて、食べもするんですよ。よく食べかけの死骸が玄関やバルコニーの前に転がっていましたから。ある時、マキシィが自分と同じくらいの大きさのキジをくわえて帰ってきたことがあります。父が、一体何を捕まえてきたんだろうと見ようとして、マキシィに近づいたんです。そうしたらマキシィ、物凄い剣幕で父を威嚇したんですよ。うううううって。横取りされると思ったんでしょうね。ネズミを生きたまま連れて帰ってきたこともありました。家のなかで追っかけまわして遊ぶんです。そんなことは最初で最後だったのに、よりによってその日はお客さんが来ていたんですよ。お客さんもびっくりですよね。 マキシィはそうやって、昼間はほとんど家の外にいて、夜になると家に帰ってきました。夏は好きな時に帰ってきて、家の中に入ってくることができます。田舎の家は昼も夜も戸締りをしませんからね。冬になると、寒いのでドアを閉めます。なので、冬は私たちが寝る時に名前を呼ぶんです。「マキシィ、マキシィ。もう寝るよ、帰っておいで。」そうすると、ひょっこり帰ってくるんです。自分がマキシィだっていうこと、家に帰れば寒さをしのげること、自分の家がここだっていうこと、ちゃんと分かっているんですよね。 マキシィは数日帰ってこないこともしばしばありました。そういうとき、こっちは心配するんですけど、本人は素知らぬ顔をしています。「ちょっと遠回りしてただけだよ」ってね。元気に帰ってこればそれでいいんです。猫を放し飼いにしていると、そうじゃない時もある。隣に住んでいたジェニーの家が旅行に行った時、猫を預かったことがあります。ミンカという雌の猫です。預かっているときに、帰ってこなくなった。帰ってきたジェニーはそれを聞いて、わんわん泣いてしまいました。2週間経って、みんな諦めかけていたときに、ミンカは帰ってきた。薄汚れて、やせ細って、ふらふらして、それはもうかわいそうでした。でも帰って...

ダスティ―Pia, 1993, Vasoldsberg

ダ スティという名前は、私がつけたんです。始め父が家のなかにいれるのを嫌がって、庭のガレージで飼っていました。そしたらすごく埃っぽくなっちゃって、よしよしすると埃がふわぁって舞うぐらい。だから、ダスティ Dusty。おばあちゃんは、私が何度訂正しても、ずっと「ダフティ」って呼んでいたけれど。 ダスティは私が初めて飼った犬です。私はどうしても犬が飼いたくて、ずっと両親にお願いしていたんです。父が反対していたんですが、最後はしぶしぶ認めてくれて、近くの農場で生まれた子犬を引き取ることにしてくれました。ダスティは雑種です。農場で飼っていた雌の犬が、どこかで妊娠して産んだ子です。だから、お父さんは分かりません。車で農場まで迎えに行ったときのことをよく覚えています。生まれたばかりのダスティは真っ白で、お腹にひとつだけ大きな黒いぶちがありました。「この子が私のワンちゃん!」一目惚れみたいな感じでしたね。 ダスティは辛抱強くて優しい、本当にいい子でした。大きくなるにつれ頭の毛も黒くなって、ちょっとダルメシアンみたいな見た目になりました。父はきれい好きで、始めダスティを家の中にいれようとしなかったけど、そんなの無理ですよね。父はまず、玄関部屋までならいいということにしてくれた。いつのまにか次の部屋まではいいということになり、今度はキッチンまでOKになって、最後はリビングまで入れてもらえるようになりました。ダスティは賢いんですよ。前脚を伸ばして、ここからは入っちゃだめだよと言われた部屋にちょっとだけ足をいれちゃうんです。「これもダメ?」って顔をしてね。父もお手上げです。 ダスティはその後少しして、メルラッハに住む祖父母の家に引き取られました。そのころ母の体調が悪くて、犬アレルギーが疑われたからです。結局犬アレルギーじゃなかったんですけどね。 インタビュー・文:OKUJI Yukiya

ホテル・メッテルニヒ―James, 2015/2021, Wien

僕 が初めてウィーンに来たのは大学生のとき、当時付き合っていた彼女と一緒でした。僕はその時ローマに留学していて、彼女が休みの間遊びに来てくれていたんです。お互い旅行好きということもあって、イタリアだけじゃなく、ドイツのミュンヘンやチェコのプラハ、オーストリアのザルツブルクまで、いろんなところを飛び回っていました。ちょうど年末の時期で、ウィーンで年越ししたいなと一瞬思ったんですが、ホテルの値段を見てみると、ハイシーズンでクリスマスからニューイヤーはぐっと高くなっていたんです。当時は学生でお金もなく、できるだけ安く旅行しようとしていました。いろいろ調べた結果、オーストリアより物価の安いスロヴァキアのブラチスラヴァで年越しして、1月1日にウィーンに移動することにしました。ブラチスラヴァとウィーンは電車で30分ぐらいなんですけどね、今から思うとちょっと滅茶苦茶な話です。でも、ブラチスラヴァでの年越しは本当に素敵でしたよ。 そんなにやりくりして行ったのに、ウィーンには 1 泊しかしませんでした。そういう旅行をするタイプだったんです。元日にシェーンブルン宮殿に行きました。新年で、雪が降ってひどく寒かったのに、すごい人でしたね。それからどこに行ったかな。シュテファン大聖堂、王宮博物館、カプツィーナー教会……王宮家具博物館にも行ったな。ホテルの近くだったんですよ。あと、ラントマンでカイザーシュマーレンとモンブランを食べて、あまりの量と甘さに気持ち悪くなったりもしました。やっぱり1泊では全然回り切れなかったんですけど、時間がないなりにかなり無理して遊びまわったと思います。 そういう無茶なスケジュールと、長旅からくる疲れと、真冬の中欧の寒さが堪えて、一緒にいた彼女はウィーンで熱を出しました。昼頃から体調が悪くなって、夕方にホテルに戻って少し仮眠をとり、なんとか夕食をとる体力を回復させて、近くのイタリアンレストランで簡単に食事を取ったあと、すぐにホテルに戻りました。結構無理をさせてしまったと思って、僕も反省しました。薬も持っていなくて、できることといえばホテルのタオルを濡らしておでこにのせたり首に巻いたりしてあげるぐらい。次の朝もチェックアウトぎりぎりまでホテルで休んで、ウィーンからローマに帰りました。 その6年後、僕は期せずしてウィーンで働くことが決まり、またこの街にもどってきました。...

馬に乗るⅢ―Pia, 1984, Mellach

マ ンディーは私のことちゃんと分かってくれていたのかな。たぶんそんなことはないと思う。乗馬学校の馬は1日に何人も乗せるし、私のレッスンは週に1回だけだったから、たぶん認識されていなかったと思います。やっぱり、馬にちゃんと自分のことを見分けてもらったり、馬のその日その日の気分が分かったりするようになるためには、毎日馬に会わなきゃいけないんだと思います。一度、両親に、「私も馬が飼いたい」ってお願いしたことがあります。でも、さすがの両親も、それにはいいよと言ってくれなかった。「馬を飼ったらね、毎日餌もやらなきゃいけないし、ずっと面倒を見てあげなきゃいけないし、たくさんお金もかかるし、とっても大変なんだよ、だからやめようね」って。両親の言う通りですよね。でも、その時はやっぱり悲しかったですね。 乗馬学校に通い始めて少し経つと、コオラ Cora という牝馬に乗るようになりました。若い、茶色い馬。この子も大人しい、いい子でした。大好きでしたよ。一度、コオラが売却されるという噂がたって、動揺した私は、「どうしよう、コオラが売りとばされちゃう、もうコオラに会えないかもしれない」って母に泣きついたのを覚えています。結局そんなことなかったんですけどね。マンディーはね、その乗馬学校で一番大人しいから、いつも乗馬が初めての子を乗せるんです。マンディーに乗る機会があまりなくなったのはちょっと寂しかったけど、私はマンディーから卒業できたということですね。 その乗馬学校には10歳ぐらいまで通っていました。でも、ずっと教わっていた先生が辞めてしまったのをきっかけに、次第に足が遠のいて、そのあと乗馬はしなくなりました。馬ってね、すごく暖かいんですよ。馬に乗っているとき、上から首に手をまわして、ぎゅっと抱きしめるのが好きだった。たてがみに包まれて、本当に暖かいんです。そうだ、私が行っていた乗馬学校、まだあるんですよ。Reithof Mellachっていうんです。ほら!これが厩舎で、これがホール、これがアリーナ。もう40年ぐらい経つのに、全然変わってないですね。 インタビュー・文:OKUJI Yukiya

馬に乗るⅡ―Pia, 1984, Mellach

私 はマンディーが大好きで、レッスンの前にはいつも、撫でたり、ブラッシングしたり、蹄をきれいにしたり、りんごや人参やパンをあげたりしていました。レッスンは50分で、馬への指示の出し方、歩いたり走ったりする方法、ターンのやり方などを学びます。自分のレッスンが終わると、次の時間もレッスンがある馬はその場に残って、次の時間にレッスンがない馬は、乗っていた人が厩舎に連れて帰ることになっていました。私は、マンディーに次のレッスンがないと知ると、とても嬉しかった。レッスンの後もまだマンディーと一緒にいられるからです。一緒に厩舎に帰って、馬具を外して、蹄をきれいにして、ブラッシングして、撫でて・・・。マンディーと少しでも長く一緒にいられることが嬉しかったんですね。 私が通っていた乗馬学校では、年に一回、クリスマスに発表会がありました。生徒の家族がたくさん集まって、その前でひとりひとり技を披露するんです。通い始めて1年目の発表会のとき、私はマンディーと一緒でした。私は白いベールに白いマント、ピカピカしたお星さまの飾りをいっぱいつけて、天使の仮装をしました。マンディーもクリスマス仕様のキラキラした飾りをつけていました。マンディーも白いから、ふたりとも真っ白ですね。クリスマスソングに合わせて、私はみんなの前で、手を上げたり、足を上げたり、後ろを振り返ったり、少しギャロップしたりしました。まだ乗馬を始めてすぐだったので、馬術というほどのことでもないんですけど、それはそれは鼻高々でしたよ。「見て!私とマンディー、こんなこともできるの!」ってね。 一回マンディーから落ちたことがあります。マンディーが何かにちょっと驚いて、しっかり手綱を引いていなかった私は背中から地面に落ちました。落ちた衝撃で一瞬本当に呼吸が止まり、周りにいた先生たちの悲鳴が聞こえました。人が落馬すると、馬って普通はビックリして走り去ったりするんですよ。でも、私が落ちた時、マンディーはどこにも行かなかった。一歩も動かずに、じっと私のそばにいてくれたんです。その時のことは今でもよく覚えています。 (続) インタビュー・文:OKUJI Yukiya

馬に乗るⅠ―Pia, 1984, Mellach

私 が乗馬を始めたのは 4 歳のころです。グラーツから車で 30 分ぐらいの、メルラッハという村に住んでいました。小学校はひとつだけあるけれど、中学校はないような、田舎の小さな村でした。家のすぐ近くに乗馬学校があって、横を通るといつも馬がいるのが見えました。私は幼心にどうしても馬に乗りたいと思って、自分から両親に頼んだんです。「お馬さんに乗りたい」って。両親はあれしなさい、これしなさいって私に決して言わない人たちでした。その代わり、私がこれしたいって言うと、いいよって言ってくれた。そうやって、乗馬学校に通い始めました。 私が初めて乗ったのは、マンディー  Mandy  という白い牡馬です。本当はダイアモンド   Diamant  っていう名前なんですけど、長いから、みんなマンディー、マンディーって呼んでいました。マンディーは 23 歳ぐらいだったかな。馬の寿命は大体 30 年ぐらいなので、もうおじいちゃんですね。絶対に急に動いたりしない、本当に穏やかな馬でした。だから、初めて馬に乗る人にはぴったりで、 4 歳の私もマンディーに乗せてあげるのがいいね、と先生たちが考えてくれたんです。 4 歳の子どもなんて、本当に小さいですよね。でも、だからといって、背の低いポニーに乗るわけではないんですよ。マンディーは普通の大きいウォームブラッドでした。初めてマンディーと会った時、私はマンディーを首が折れるほど見上げて、「なんて大きなお馬さんなんだろう」と思いました。体が小さすぎて自分では馬に登れないので、先生が私をひょいっと持ち上げて、マンディーの背中に乗せてくれました。初めて馬に乗った私は、天にも昇るような気持ちでした。もうマンディーから降りたくない、このままずっとマンディーに乗っていたい、そう思いました。不思議ですね、こんな大昔のことなんてずっと忘れていたのに、今話していて急に思い出しましたよ。 (続) インタビュー・文:OKUJI Yukiya

Prologue

I am drawn to that small space called a human being …a single individual. In reality, that is where everything happens.  ―Svetlana Alexievich ウィーンに来てから数か月が経ち、少しずつこちらで友人や知人ができ始めました。彼らは私に、オーストリアのこと、最近あった出来事、自分の人生について、コーヒーやワインを片手に話してくれます。その、ある時はささやかで、ある時は悲しい、ある時は幸せな彼らの話は、この国に暮らし始めた私にとって、どれもとても印象深いものでした。人はすべてを忘れながら生きていく生き物ですが、私は、彼らの話を忘れたくないと思い、ひとつひとつを物語として書き留めておくことにしました。それがこのブログです。 ひとつひとつの物語が、ひとつひとつの文章にまとめられています。文章の副題は、「語った人、それが起きた年、それが起きた場所」を表しています。例えば、「Pia, 1984, Mellach」なら、「Piaさんが語った、1984年にMellachで起きたこと」についての文章だということです。このブログに書かれた出来事はすべて、この地を舞台に実際に起きたこと(あるいは、 彼らにとって、 実際に起きたこと)です。特段の事情がない限り名前や地名も変えず、できるだけ彼らが語ったままを書き留め、本人の許可を得たうえで、掲載しています。 このブログは、オーストリアの観光ガイドでも、海外生活の助けになる情報サイトでもありません。読んで役に立つことはあまりないかもしれません。それでも、このブログが、地球の片隅で誰かの人生にこういう一場面が確かにあったということに、一瞬思いをはせる機会となればいいなと思っています。それが忘却の波に飲み込まれてしまう前に。 最後に。ブログのタイトル「What We Talk About When We Talk About Austria オーストリアについて語るときに私たちの語ること」は、村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』と、レイモンド・カーヴァー『What We Talk About When We Talk About Love 愛について語るときに我々の語ること』へのオマージュで...