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投稿

Prologue

I am drawn to that small space called a human being …a single individual. In reality, that is where everything happens.  ―Svetlana Alexievich ウィーンに来てから数か月が経ち、少しずつこちらで友人や知人ができ始めました。彼らは私に、オーストリアのこと、最近あった出来事、自分の人生について、コーヒーやワインを片手に話してくれます。その、ある時はささやかで、ある時は悲しい、ある時は幸せな彼らの話は、この国に暮らし始めた私にとって、どれもとても印象深いものでした。人はすべてを忘れながら生きていく生き物ですが、私は、彼らの話を忘れたくないと思い、ひとつひとつを物語として書き留めておくことにしました。それがこのブログです。 ひとつひとつの物語が、ひとつひとつの文章にまとめられています。文章の副題は、「語った人、それが起きた年、それが起きた場所」を表しています。例えば、「Pia, 1984, Mellach」なら、「Piaさんが語った、1984年にMellachで起きたこと」についての文章だということです。このブログに書かれた出来事はすべて、この地を舞台に実際に起きたこと(あるいは、 彼らにとって、 実際に起きたこと)です。特段の事情がない限り名前や地名も変えず、できるだけ彼らが語ったままを書き留め、本人の許可を得たうえで、掲載しています。 このブログは、オーストリアの観光ガイドでも、海外生活の助けになる情報サイトでもありません。読んで役に立つことはあまりないかもしれません。それでも、このブログが、地球の片隅で誰かの人生にこういう一場面が確かにあったということに、一瞬思いをはせる機会となればいいなと思っています。それが忘却の波に飲み込まれてしまう前に。 最後に。ブログのタイトル「What We Talk About When We Talk About Austria オーストリアについて語るときに私たちの語ること」は、村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』と、レイモンド・カーヴァー『What We Talk About When We Talk About Love 愛について語るときに我々の語ること』へのオマージュで...
最近の投稿

隣人―Matthias, 2022, Wien

ど うぞどうぞ、上がって!玄関入るとここがすぐキッチンね。換気扇はないけど、こうやって、廊下に面した窓を開ければ風が通るよ。ああそれ、その鍋はファルノスがイランから持ってきたやつ。俺はそれ信用してない。料理に使ったらなんか悪い物質が出てきそうじゃない?だからほら、ニンニク入れにしてる。ここがトイレ。トイレは君たちが引っ越してくる前に新しくするつもりだよ。それで、こっちがリビング。天井が高いでしょ?4メートルぐらいある。設備は古いけど、アルトバウに住むのも悪くないよ、せっかくウィーンにいるんだしね。これはアンティークの棚で───今の、聞こえた?ほら、前話した、上の階の子たちが帰ってきたんだ! で、なんだっけ?ああそうだ、あそこに金ぴかの派手な時計あるでしょ、あれ、うちの祖父から譲り受けたやつなんだけど、もとはこの棚の上に置いてて、一回不注意で落としちゃったんだ。それでここがちょっと傷ついちゃった。この絨毯はたぶんロンドンに持っていく。あのシルクの絨毯もかな。あれはうちの両親からのプレゼントなんだ。───今のだよ!ドスンっていうやつ。幼稚園ぐらいの子が二人いるんだ。いま6時か。やつら、今日も遊び始めたぞ! 何の話をしてたっけ、そうそう、このソファはこんな感じでベッドになる。その鏡はムラーノグラス。このサイドテーブルとライトもイタリアで買ったんだ。それはイケアだけどね。インテリアは大体ファルノスの担当だよ、アーティストでもあるからね、センスがいい───ほら、まただ!こんなのはまだいい方だ。大家の自分が言うのもなんだけど、ここは良い家だよ、でも、唯一の欠点は上の階に住んでる子たちだ。床が木だからね、足音が下によく響くんだ。ほんとにもう、地震みたいなんだよ! それでなんだっけ、そうだ、ここが寝室。マットレスは奮発していいやつを買った。ドアの裏にも本棚がちょっとある。この棚も世紀末ウィーン風のアンティークで───いや、これでも相当改善されたんだ。俺がミスター・チャンに苦情を言ったんだ、お宅にお住まいのご家族がうるさくて困ってます、大家さんとして注意してもらえませんかってね。そりゃ子どもなんだから元気に遊ぶのはしょうがないよ、俺だってそれぐらいは分かってる。でも、少なくとも家具の上からは飛び降りないでくれって言ったんだ! まあまあ座って。あ、またお土産持って来てくれたの?全然気に...

プラーターⅤ―Pascale, 1993-2021, Wien

あ 、ちょっと、お花を摘んでいってもいい?私、ちょっとした畑を持っててね、ここの公民館のお庭に小さい木箱を借りて、好きなものを植えたりしてるの。市民農園ってやつね。ほら、これが私の箱!コスモスが伸び放題になってるわね……これをちょっとお家に持って帰りましょう。あ、このナイフ、びっくりした?ビクトリアノックス。日本人がハンカチを持つように、スイス人はナイフを持つのよ。トマトも植えてる。夏はすごい勢いで採れたわ。ここを借りるのはもう2年目かな。来年からはスペースが減るから、抽選になるんだって。ちゃんと当たるといいけど……。お隣のこの人が植えてるのは唐辛子。去年、夜のうちに全部泥棒に盗られちゃったのよ!ひどいことをする人もいるもんね。 さあ、我が家までもう少し!───今のバー、見た?観光客はシュテファン大聖堂とか国立歌劇場とかを見て「ああウィーンだなあ」って思うかもしれないけど、私からしてみれば、あれこそがウィーンよ。薄暗いカフェの軒先で赤ら顔の爺さん婆さんが昼間からビールを飲んでる───あら、ドラガンさん!こんにちは!何してるの?───あの人、ご近所の人。セルビア出身みたいね。いつもワインとかチョコレートをみんなに配ってくれるの。いい人だけど、ほら私、前に人間関係でいろいろ失敗したから、適度に距離を置こうとしてる。オーストリアでは結構それが難しいのよね。でも、近所付き合いが嫌いっていうわけじゃない。こっちって冷房がないでしょ。だから夏は、風を通すために、みんな家の窓と玄関のドアを開けるの。お互い気心知れた仲だから、全然気にしない。うちのエマちゃんも、ひんやりしたアパートの廊下に出て涼んだりして。誰かがアパートの前の通りでおしゃべりしてたりすると、みんながそれを聞きつけて、誰からともなく集まって、パーティーが始まったりする。そういうのって、素敵よね。 いまの家はね、5年前ぐらいに買ったの。前のオーナーは昔カヌーのオリンピック選手だったとか言ってた。エマを飼い始めたのはもっと前。シェルターから引き取ってね。大丈夫、猫なのに全然人見知りしないから。そういえば昨日、うちの住所にウィーンの美術館からニュースレターみたいなのが届いてたんだけど、宛名が日本の名前だったの!昔、日本の人が住んでたのね、もしかしたら私の将来の夫かもしれないわよ、なんてね───ほら、やっと着いた!ようこそ我...

プラーターⅣ―Pascale, 1993-2021, Wien

こ れが昔住んでたアパート。ここに12年住んでた。暗い中庭に面した、暗い部屋だった。私はやっぱり通りに面した部屋が好きだな。車の音とか、道行く人の話し声とか、赤ちゃんの泣き声とか、そういうのが聞こえたほうがいい。ここは物凄く静かな部屋だったの。あ、でも、隣の人はすごくうるさかったのよ。カップルで、夜になるとセックスの声がすごいわけ。私も多少は我慢するけど、でも、毎晩聞こえてくるわけ!ついに耐え切れなくなって、お家のドアに貼り紙したの。「お二人が仲良くされているのは素晴らしいことだと思います。でも、どうか、もう少しだけ静かにしていただけませんか」ってね。そしたらピタリと聞こえなくなった。女の人のほう、ついこの前も見かけたから、まだこの辺りに住んでるみたいね。 ここに住んでた時の苦労はまだまだある。あるとき、中庭を挟んだ真向いのお家の人に声をかけられたの。ほら、ウィーンって、建物の距離が近くて、お向かいの部屋が目と鼻の先だったりするでしょ。窓を開けた時にちょうど鉢合わせて、そこから、お互い自分の家にいながら中庭を挟んでお話しするようになったわけ。私よりちょっと年下の女の人で、小さい男の子が3人いた。男の人と別れて引っ越してきたって言ってた。一緒にお茶に行ったりもしたわ。いい人だったんだけど、ちょっと距離が近かったかな。依存されてる感じがした。ひとりでいるのが耐えられない人だったのかもね。問題だったのは、家が真向いだから、私が家でなにしてるかが相手にバレバレってことよ。彼女がいつ窓際にいてこっちを観察してるかわからないから、窓の前を横切る時は、こうやって窓より低くかがんで歩いてたの!自分の家なのに、コソコソしなきゃいけなかったわけ! あそこは、ウィーンに来て最初に住んだ家。一番上の階だった。チューリヒからあそこに引っ越してきたころは、孤独で、世界から切り離されたみたいだった。2年で引っ越したわ。 (続) インタビュー・文:OKUJI Yukiya

プラーターⅢ―Pascale, 1993-2021, Wien

プ ラーターは昔、売春宿が多かったの。この建物も昔はそういうところだった。初老の男の人が経営してて、3つぐらい部屋を貸してたみたい。売春宿って聞くと、女の子を無理やり働かせてるみたいな悪いイメージがあるでしょ?でも、そんな白黒つけられる話でもないと思う。宿がなかったら女の子たちは公園とか車のなかでするしかない。それって、すごく危ないわけ。部屋を提供してあげるのは、彼女たちの安全のためでもあったの。まあ、お金をもらって商売してたわけだけどね。タバコとかサンドイッチも用意してあげてた。警察も目をつぶってたわ。でも、10年前ぐらいに閉鎖された。女の子たちが泣いてたのを覚えている。そのあとその男の人はどうしたんだろう。朝、仕事にいくときによく一緒になったから、いつも挨拶してたの。でも、名前も知らなかったわ。彼、いつもトイレットペーパーを持って走り回ってた。 ここのお店は、ものすごく大きいコルドン・ブルーを出すところ。コルドン・ブルー、知らない?カツレツなんだけど、なかにハムとかチーズとか入ってるの。隣のここも売春宿だった。お客は昼間も多かったから、ランチどきのコルドン・ブルー屋のまわりは結構な騒ぎだったわよ。両脇を売春宿に挟まれてるからね。まあ誰もそんなこと気にしないけど。向かいのあのお店は、昔タイマッサージだった。値段も安くて、夏にはテラス席も出してたから、私も行きたかったんだけど、場所柄たぶんそういうサービスもするところだったと思うな。結局行かずじまい。プラーターは、売春婦の女の子たちがいつもウロウロしてた。私も一人で信号待ちしてたら、車がゆっくり近づいてきて、運転してる男がウインクしてきたりするわけ。「違います」って顔すればすぐ去ってくけどね。売春婦っていっても、派手な格好をしてるわけじゃない。みんな普通の見た目よ。東欧から来た女の子が多かった。オーストリア人の子もいたけどね。 一回、交流会に行ったことがある。売春婦の人達との交流会。売春は悪いことがどうか、違法にすべきかどうかってよく議論されるけど、じゃあ本人たちがどう思ってるかって、全然注目されないでしょ?だから、ある支援団体が、当事者の女の子たちに語ってもらおうっていって、交流会を開いたの。ここの売春宿でよ。すごい盛況で、マスコミも来てた。部屋ごとに違うセッションが開かれてて、私はそのオーストリア人の子の話を聞い...

プラーターⅡ―Pascale, 1993-2021, Wien

あ れが有名なプラーターの観覧車ね。『第三の男』は知ってるでしょ。あの観覧車、ちょっとスカスカだと思わない?ワゴンが一個飛ばしについてるからよ。昔はもっとたくさんワゴンがついてたんだけど、戦争で壊されて、半分に減らしたんだって。この遊園地は昔からあったけど、あんな洒落た入り口はなくて、それはそれは寂れた場所だった。さあ、横断歩道を渡りましょう。ここの公園、Venediger Auっていう名前でしょ。昔は水路が走ってて、ヴェネツィアみたいだったらしいね。戦争で壊されたあと修復されなかったけど、今も公園として残ってる。いつも女の人たちが体操とかダンスしてるわよ。あれ、中国の人たちだよね?みんなで集まってて、すごく楽しそう。 この角のスーパー、今はBILLAだけど、昔はMeinlだった。そうそう、あのユリウス・マインル。今はもうあのグラーベンのお店しかないけど、あの頃はたくさん店舗があったの。別に高級スーパーって感じでもなくて、普通のスーパーよ、薄汚れた感じの。オーストリアのスーパーってどこもかしこもなんか薄汚れてると思わない?初めてウィーンに来たとき、ここのマインルでフルカーデ Frucadeっていうジュースを買ったのを覚えてる。オレンジジュースみたいなものね。そのとき付き合ってた彼氏と一緒に、ナイス・ピープル・ショー Nette Leit Showっていうトークショーをウィーンに見に来たの。Hermes Phettbergっていう、すごく太ったコメディアンが司会の番組。Hermesはギリシャ神話のヘルメスで、Phettbergは脂肪の山っていうこと。ゲストに、アルコールだったらエッグノッグ Eggnog、ノンアルコールだったらフルカーデを出すことがお決まりで、私たちも飲んでみたくて探し回ったの、すごくオーストリアの飲み物って感じがしたから。意外と見つからなかったんだけどね。そのときに泊まったのがプラーターで、そのあとウィーンで暮らし始めてからずっと、プラーターに住んでる。 (続) インタビュー・文:OKUJI Yukiya

プラーターⅠ―Pascale, 1993-2021, Wien

よ うこそ、プラーターへ!そうだ、ちょっとコーヒー買っていっていい?ここのマクドナルド、少し前までは毎日来てた。5、6年間通い詰めてたの。平日は出勤前に寄って、週末の朝も欠かさず来てた。朝8時のプラーターのマクドナルドなんて、まあ、いろんな人がいるよね。大体いつも同じ顔ぶれ。常連さんのなかにひとり、80歳のお爺さんがいたんだけど、いつの間にか仲良くなって、あそこの席で毎朝おしゃべりしてた。でも、その人、途中からたぶん私に本気になっちゃったんだよね。なんとか上手く距離を置こうとしてたんだけど、そこにコロナが来たわけ。今はもう85歳ぐらいだと思う。年も年だし、元気にしてるか気になって一回電話して、それっきり。タイ出身の華僑で、音楽でウィーンに来て、今は旅行会社を経営してるって言ってた。脚が悪くて、杖をつきながらゆっくり歩く人だった。すごくゆっくり。 ――お待たせ、さあ行きましょう!この高架下は、昔トラムが走ってた。あっちからこっちに、こうやって。このお花屋さんは昔、あの銅像の横にあったんだけど、再開発のときにこの高架下に移ってきたの。銅像の横にあったときはね、アイスとか果物とか野菜とかも売ってた。ちょっとしたキオスクみたいな感じね。今も昔もおじさんが一人で切り盛りしてるんだけど、移転する時に店名を変えたの、レオニータっていうのはお嬢さんの名前よ。あの中華料理屋さんはいいところ。中国人のご兄弟と奥さんでやってらっしゃってね。この薄汚い建物はクラブ。ほんと、ひっどい見た目!このお店も昔は駅のなかにあったんだけど、再開発でここに移転してきた。今は改装中で休業してる。昔は私もよくここでビールを飲んだりしたわ。テラス席に座ってプラーターを行きかう人達を見るのが好きだった。ホームレスの人、アル中の人、ヤク中の人……あの人たちって、もう、完全にあっち側にいっちゃった感じなのよね。同じ世界の住人じゃないっていうか。十何年か前に再開発があって、駅構内はアルコール禁止になった。それで、彼らは一掃された。でも、そんなのっておかしいと思わない?あの人たちも、私たちと一緒、同じ社会の一員なのに。ここに来るとき、駅のホール通ったでしょ?今は明るくて小ぎれいだけど、それまではあそこ、すごく薄暗くて、がらんとしていて、ATMが一個ポツンと立ってるだけだった。プラーター駅ってのは、ウィーンで一番ヤバい場...

偶然―Yoko, 2021, Wien

チ ェコからオーストリアへの列車は、結構な混雑でした。日曜日の夜の便だったので、帰省や休暇帰りの人が多かったのでしょう。なんとか見つけた席に荷物を置き、とりあえず食堂車に行って、軽く夕食をとりました。戻ってくると、途中の乗換駅でたくさん人が下りたようで、車両はだいぶ空いていました。もっと足が伸ばせる 4 人掛けの座席が空いているのを見つけたので、そこに移ろうかな、でも、一度荷棚にあげた荷物をまた移動させるのも面倒だな、と思ってキョロキョロしていると、その席の後ろに座っていた人が、自分の席を譲ろうとしてくれました。私が彼の座っている席に座りたがっていると思わせてしまったのかもしれません。茶色いくせ毛をした若い男の人でした。私は「大丈夫、ありがとう」と言って、結局、その空いていた 4 人席に移ってくることにしました。 静かになった車内と、加速する列車の単調な揺れのおかげで、私はやっと少し落ち着いた気分になりました。 1 年で1番日の長い時期でしたが、夜 9 時過ぎの空は気づけばもうすっかり暗くなっていました。なんで日本語だったんだろう、としばらくして思いました。席を譲ろうとしてくれた人に、私、日本語で「大丈夫、ありがとう」と言ったんです。まだチェコだったので、ドイツ語も英語も違う気がした。チェコ語はしゃべれないし。私、現地の人が現地語で話してくれるの、結構好きなんです。今回チェコにいたときも、そういうことがよくありました。交差点で、「鞄のファスナー開いてますよ」と若い女の人がチェコ語で教えてくれた。そういう時、始めは何を言っているかさっぱりなんですが、大体身振り手振りですぐ分かります。意味が分からなくても、現地語が一番優しい感じがする。だから、私もその人にできるだけ優しくなろうとしたのかもしれない。でも、日本語で話したら相手には一番通じないんですけどね。 列車は定刻から少し遅れてウィーンの中央駅につき、私は足早に地下鉄に乗り換えました。夜 10 時過ぎでしたが、座れないぐらいの込み具合でした。ぼーっと立ちながら、前に座っている人を見るでもなく見ていると、その人がさっきの席を譲ろうとしてくれた男の人だということに気づきました。背の高い人でした。私は3駅乗って、 Stephansplatz で乗り換えました。乗り換えたU3のホームで電車を待っていると、同じホームの遠...